献血ポスター問題について

日本赤十字社献血キャンペーンのコラボ企画として漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』のキャラクターのポスターが献血ルーム掲示されたことが議論を呼んでいる。

僕個人としてはあのポスターに嫌悪感は抱かなかったし、むしろ批判者が過剰にエロティックに解釈しているように感じたのだが、そのように解釈されるのも無理はないとも思い、一定の配慮は必要だろうと思うに至った。

この件、かなり話がこじれていて、正直何を言っても徒労に終わる予感しかないのだが、考えの整理と記録のために、なぜそう思うのかをまとめてみた。

クラスタ毎の解釈の差

様々な人が様々に解釈する「宇崎ちゃん」ポスターだが、特に溝が深い「非オタク女性」と「オタク男子」での解釈の違いをまとめると以下のようになる。

非オタク女性:

  • 胸を過度に強調しているように見える
  • 表情は性的に興奮しているようにも見える
  • 絵柄がネットのエロマンガエロゲームの広告のそれと類似して見える
  • 以上の特徴から男性の性的興味を煽る表現に見える

オタク男性:

  • 胸の大きさは強調されているが一般的なキャラクターデザインの範疇
  • 表情は意地悪で小悪魔的なキャラクターを連想させる
  • 絵柄は一般的なマンガ・ゲームで見られる範疇
  • 以上の特徴から殊更男性の性的興味を煽る表現に見えない
    • 現に自分はこの絵にさほど性的興味を抱かない

特に原作を知る人の場合以下のようになるだろう。

  • 宇崎の胸の大きさは作品世界に違和感を導入するためのギミックである
    • 「巨乳」表現は半ば戯画的なもの
    • 作中人物は基本的に宇崎の胸に関心を寄せていない
    • サービスシーンはあるが一般的なマンガにで見られる範囲
  • 宇崎の表情は大好きな先輩の弱みを見つけてイタズラ心を刺激されている表現
    • ポスターを見る人が先輩(桜井)になったつもりで見るのが正しい見方
    • 先輩を小馬鹿にしてイジるのが宇崎なりの親愛の情の表現

解釈の差はどこからくるか

このような解釈の差が生まれるのはなぜか。いくつか理由があると思われる。

記号の多義性に対する認識の違い

まず非オタクの方がオタクにくらべて図像を一義的・記号的に解釈する傾向が強いように思われる。非オタクには胸を強調した表現が「巨乳!エロい!」という記号に見える。記号に過ぎないならば、例のポスターは「巨乳!エロい!」と大書してあるのとさして変わりはない。だとすれば明らかに扇情的だし場違いである。

一方でオタクは一見ステレオタイプなマンガの記号的な表現にも実際には多義性があることを知っているので、その意味を一義的には解釈しないようだ。特に単体のイラストではなく原作があるものならある表現の作品世界での機能や意味付けは様々であり得るので、原作を知らないなら「詳細不明だがとにかく「そういうキャラ」である」とありのままニュートラルに受け止める。

この「ありのまま受け止める」という態度は、現実に胸の大きな女性が目の前にいる時の態度に近い。胸が魅力的に見えるからといって目の前の女性は別に自分を挑発しているわけではない、と認識する態度だ。一部のオタクが胸を強調した表現の記号的解釈に対して「胸の大きな女性を差別している」と感じるのは、そのように解釈する人が自分のように現実の女性にも同様の態度をとるものと誤解しているからではないか。

性的視線の不快さに対する認識の違い

一般に女性は、男性が思う以上に男性からの性的視線に敏感で、それを不快に感じている。女性は自らに向けられた視線が専ら性的な関心に集中していると、人格を持ち尊厳を持った存在としての自分が無視され、人間として扱われていない(モノのように扱われている)と感じる。

これには、女性にとって自らの身体の性的魅力は、第二次性徴に伴い自分の意志とは関係なく発生したものであるが故に、アイデンティティに馴染まないまま浮いた形になりがちであることが関係しているのかもしれない。また、実際に性暴力の被害やその危険に晒される体験があるために、男性の性的関心が女性の尊厳を踏みにじる態度と強く結びついた形で認識されるようになっているのかもしれない。

性的視線というものは、自らがそれに晒された場合に感じるだけではなく、誰かが誰かを性的に見ているということを第三者の立場で感じることもある。それもまたいたたまれない気分にさせられるものであり、その視線が自らにも向けられうることに身震いさせられるものでもある。

そのような性的視線の存在は、女性の性的魅力が強調された視覚的表現(イラストや写真)からも感じられる。そのような表現は、表現者の性的視線の存在なしには生まれないからだ。また、特に商業的な表現は鑑賞者の需要を満たすために制作されていることから、女性を性的視線で見ることへの需要があり、表現はそれを肯定しているように解釈される。

一方で男性の側は、自分が向ける性的視線がそこまで重く受け止められていることが納得できない。まず、性的魅力は女性の個性の一部だと思っているし、そこに関心が向くことがあっても、それで女性の尊厳を無視しているつもりはない。

男性は、女性に人間としての魅力を感じることと性的魅力を感じることは両立していると感じている。ただし、相手の人間としての魅力が不明なままでも性的魅力のみを感じることはありうる。誰もがそうというわけではないが、多くの男性は誰だかわからない女性の裸体に興奮する。

そのことが、男性の性的視線は「女性を性的なモノとして「のみ」見ている」という認識に繋がっているようだ。確かに多くの男性にとって、性衝動は視覚的刺激によって自動的に惹起されるもので、それは「性的なモノ」にのみ反応している。しかし、男性の精神は性衝動に支配されているというわけではなく、精神の別の部分、おそらくは過半を占める部分は目の前の女性を一人の人間として見ている。

とはいえ、男性の性的な視線には独特の雰囲気があるようで、普通でない精神状態を思わせるものがあるらしい。その雰囲気の変わりようは性衝動に精神が乗っ取られたように見えても不思議はないもので、そうではないのだと言ったところで理解を得るのは難しいかもしれない。

女性差別の再生産という観点

女性の不快感というのは単なる気分の問題ではなく、女性差別に関わる問題でもある。女性を性的なモノに貶めることを肯定する表現が公共の場に掲示されることで女性差別が再生産され、将来に渡って女性が不利益を被ることに対する憤りでもあるのだ。

ここで問題なのは、原作のマンガ作品の表現が読者に与える影響ではなく、ポスターとして切り出された表現が原作を知らない人たち(主に非オタクの一般人)に与える影響だ。原作も込みで、そればかりか「萌え」文化全般を敵視している人はいるのだが、そういう人ばかりではないし、これはそういう人たちの主張とは独立に検討に値する観点だ。

差別の再生産について「宇崎ちゃん」ポスターの寄与分などあったとしても微々たるものではないかという意見はあるだろう。しかし、影響があるのだとすれば「塵も積もれば」であり、それが「宇崎ちゃん」ポスター程度の表現が世の中に溢れている結果である以上、「宇崎ちゃん」ポスターだけを無視してよい理由はない。

たとえば米に含まれる有害物質の規制を考えてみよう。日本人がほぼ三食毎日米を食べる以上、一生分の有害物質の曝露量が健康に影響を与える量に達しないように、全ての米について有害物質の濃度を規制するしかない。おにぎり一個分に含まれる有害物質の量が微々たるものだとしても、おにぎり1個を見逃すということはできない。

もっとも、そもそも女性差別の再生産にメディアの影響がどの程度あるのかということについては、長きに渡る議論があるものの結論は出ていない。十分なエビデンスがない以上、法規制のようなハードな規制には馴染まないだろう。予防原則だけで表現の自由に関わる規制を行うことには慎重であるべきだ。

しかし、だからといって、問題提起し対話と交渉によって状況を変える努力を否定する理由もない。ケースバイケースで、なくても困らない程度の表現であれば改められ、それで差別の再生産のリスクが少しでも減るのなら、悪いことではない。

結局ポスターはアウトなのかセーフなのか

ここまで見てきたように、一定のリテラシーがあるか、あるいは原作を知っている者からすれば、「宇崎ちゃん」ポスターに対する不快感はある意味「誤解」に基づくものとも言える。しかし、「宇崎ちゃん」を見るのが初めての一般人、特に女性がこれを不快に思うのにはもっともな理由がある。誰もがオタク的リテラシーを持つべきとも、誰もが原作を読むべきとも言えない以上、不快に思う方が悪いとは言えない。

献血ルームは不特定多数の献血者が献血を行うための場であり、特定の人が献血しにくくなるということになるのは望ましくないであろう。あのポスターがあることで、少なからぬ人がもっともな理由から不快な思いをするために献血しにくくなるのだとしたら、一定の配慮は必要なのではないか。

ポスターがあることで増える献血者がいて、その数がポスターのせいで減る献血者の数より多いのなら、献血の重要性に鑑みてポスターは正当化されるのではないかという、功利主義的な議論もある。しかし、差別の再生産の懸念があるのなら、そのような正当化には倫理的な問題がある。

あのポスターが引き起こす不快感の程度、その一般性、差別の再生産の蓋然性、といった程度問題に関する不確かさがあるので、「やめるべき」から「配慮が望ましい」までグラデーションはあるものの、基本的にはアウトだろうというのが僕の見解になる。

とはいえ、「宇崎ちゃん」のファンからすれば、その表現のエロスに誘引されている面は否定できないにしても、「宇崎ちゃん」が好きなのは単にエロいからではなくて、キャラや世界観を気に入ってのことだろうから、キャラに興味のない人にエロだエロだと言われたら気分が悪いのは十分理解できる。

このエントリが、互いに相手の立場を理解した上で議論する上で少しでも役に立つなら幸いである。