charlie さんが著作権で悩んでいるご様子。ライセンスの関係で使うとフリーにできない素材があったり大変だそうで。僕は逆に会社に勤めてた頃、使うとフリーにしないといけない素材(GPLなコードとか)の事で悩んだりしてましたが。。。
http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=382 より:
むろん、著作権を取り巻く状況はどんどん厳しくなっているわけで、今までのようにはいかないというのが基本的なスタンスではありますが、そもそもある種の著作権に対する厳密さの要求ということ自体に問題はないのか、と思ってしまいます。つまり、法の運用が厳密になる社会というのは、社会学的な観点から見て「善い」社会だと言えるのかどうか。本来なら法の境界領域にすごく曖昧なところがあって、ケースバイケースで判断をしていくという運用があり得たはずなのに、そうした判断が難しくなるほどに社会が複雑になると、合法/違法の線引きという振る舞いもストリクトなものにならざるを得ない。
http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=383 より:
フリーに関する議論で、「常識的な判断」や「グレーゾーン」が重要だと僕が考えるのは、そもそも残余でしかない自由領域をストリクトに定義すること自体が、全然フリーじゃないと思うからだ。ここからここまでは自由ね、っていうのは、現在の条件に鑑みれば、自由の名に値しないと思う。
うーん、それを言っても仕方がないというか。
グレーゾーンを広くとれば、企業や著作権管理団体なんかが非常識にもグレーゾーンに入ってきた時、そこで細々と食いつないでいた個人が不幸になるだろうし。裁判では勝ってもそもそも訴訟沙汰に巻き込まれる事自体が個人にとっては負担だし。それにグレーゾーンはグレーゆえにほっといても権利者側が行政や議会に働きかけて切り取っていくけど、切り取られる場所に住んでる人がケースバイケースで連帯して対抗するのも困難だし。
だからレッシグみたいにフリーな領域を「残余としての自由領域」ではなく「共有地」、つまり柵で囲って守らなきゃいけない(共有)財産として扱うって話になるのかと思いました。それともこれはあくまで現行の制度内で対抗するためのレトリックなのかな。よくわからない。けど、他にどうしたらいいのかもさっぱりわからない。