事実認定について

一昨日の日記のコメント欄。

# w 『メモの「私」=「昭和天皇」であるという根拠をrnaさんは何一つ呈示してないわけですが。これから楽しみにしてます』

残念ながらお楽しみいただけないかもしれません。

「私」が昭和天皇であるというのはメモを実際見た人たちや昭和史の専門家などの一致した見解であり、2chらーが画像から解読した未公開部分の内容との不整合も見られないわけで、オーソドックスな読み方なわけです。それ以上の積極的な根拠を求めているのでしたら、メモを直接見たわけでもなく専門家以上の見識があるわけでもない僕には無理です。

というか、w さんは、どういう根拠があれば納得するのでしょうか?

こういう歴史的事実については「より少ない仮定で合理的に説明できる説」を事実と見るしかなく、数学の定理を論理的に証明したり、物理法則を実験と観察で証明したりするのとは話が違います。相手は普遍的な法則ではなく一度きりの出来事ですから、科学的な厳密さで証明することは一般には無理です。追試ということができませんから。

ですから「私」=昭和天皇を否定する場合、昭和天皇以外の人物が「私」であるとしたほうがより少ない仮定でメモを解釈できるとか、「私」=昭和天皇が成り立つための仮定に無理があるとか、仮定から結論を導く過程に論理的な誤りがあるとか、そういう形になります。

実際そういう方向で捏造派の人たちは色んな説を出されています。僕にできることはそれが本当に「より少ない仮定で合理的に説明できる説」なのかをチェックするだけです。僕自身には「私」=昭和天皇説よりも少ない仮定で合理的に説明できる他の説を立てるインセンティブはありません。

なお、「私」=昭和天皇説が無理な仮定をしなくては成り立たない妄説であるというのであれば、同じくらい無理な仮定をすれば昭和天皇以外の人物が「私」であることにできる、ということを主張すればよいです。これはいわゆる陰謀論の類を否定する方法でもあります。

もっとも、所詮は密室でとられたメモなのでその内容の解釈は不可能、とする立場もあると思います。必要な仮定のレベルに絶対的な足切りラインを設定して、相対的に有力な説でも受け入れられないとする立場です。一般論としては足切りラインは常に必要ですが、それをあまり高く設定すると、日常生活を支える様々な事実認識にも支障が生じざるを得ず、非常識な立場としか考えられない、ということが起こります。

ラインをどのくらいに設定するのが妥当なのかは歴史学者やジャーナリストや裁判官のような人間の世界での事実を扱うプロがどういうラインを設定しているのかを参照してみるとよいと思います。もちろん人によって、分野によって違いはあるでしょうが、常識的な範囲というのはあるわけで、それを外すと公の場での議論は不可能になります。

世間を見渡す限り、富田メモが解釈不可能なレベルだとする人はほとんどいないようですし、その点は大丈夫だと思うのですが一応。

以上、例の賭けの勝敗基準にも関わってきそうな話なので長めのお返事をしてみました。