歴史修正主義の手口について

表題について書こうと思ったのだけど既に議論されていた。

これらにほとんど付け加える事はないのだけど、自戒の意味も込めて自分の言葉で簡単にまとめておこうと思う。

「議論の捏造」による「足止め効果」

ホロコースト否定論でもそうだし、南京事件否定論でもそうですが、過去に論破された主張をそのまま、あるいは微妙に変形して繰り返す、ということがよくあります。というか、この手の「議論」に遭遇したら8割か9割くらいの確率でそういうループ化した「議論」の一部だと考えて間違いないです、経験上。

こういうのは議論とは言いません。これが議論だというなら全ての議論は決着不能ということになってしまいます。人の言う事を聞かない人が延々主張を繰り返せばどんな議論だってループ化できてしまいますから。こういうループ化したやりとりは門外漢には「議論が継続中である」という印象を与える効果があります。特に主張の細部に専門用語や専門知識がちりばめられていると一見まともな議論かと錯覚してしまうものです。そういう意味でこれは「議論の捏造」と言ってよいでしょう。*1

まともな議論とまでは思わなくても「ややこしそうな話だな」とか「ちゃんと勉強しなきゃ見極められないな」とか「あとで読む」などという態度保留の反応が引き出せたら、それは歴史修正主義側に有利にはたらきます。ほっといたら通説を受け入れて敵に回るはずの人に中立の立ち位置に止まらせたわけですから。こういうのを僕は「足止め効果」と読んでいます。

特に知識人とか、あるいは今時なら一部のアルファブロガーといった、知的な面で人から信頼されている立場の人が「足止め」を食らうのは、歴史修正主義側から見れば非常にオイシイのです。それを見た読者は「ああ、こんな賢い人でも手に負えないと思うほどやっかいな問題なんだな」と思って同様に足止めを食らってくれますし、「そういうやっかいな問題だから両論併記するのが中立的な立場なんだ」と思ってくれれば歴史修正主義を広めるチャンスが広がります。もっと血気盛んな人が学的な通説を主張する人に対して「こいつは自説の正しさばかり主張する偏ったやつだ」などと思ってくれれば相手のポイントまで奪えて最高です。

慎重でバランス感覚を大事にするタイプの人ほどこの手の「足止め」にひっかかります。バランス感覚というのはコスト感覚にも通じるもので、「議論の捏造」は議論をトレースするコストを水増しして見せることで、このコスト感覚に訴えるのです。そして「自分が納得するだけのものを得るにはコストがかかりすぎる」という合理的な判断に導けば足止め完了。「自称中立」と言うと自分のバイアスに気付かないマヌケというニュアンスがありますが、そうでなくとも引っかかるのがこの手の「足止め」なのです。

誤った入り口に誘導する

しかしながら、コスト感覚が薄いとか、知的好奇心が旺盛すぎるとか、そもそも暇人だとか、そういう理由で「議論」に首を突っ込んでいく人も少なからずいます。そういう人が引っかかるような仕組みも歴史修正主義はちゃんと用意しています。

このあたりはホロコースト否定論への反論 FAQ 集である「ニツコー66Q&A」の翻訳者である三鷹板吉さんの解説がわかりやすいので引用します。

 三鷹自身、1年前の自分を思い出しながら書いているのですが、日本の世間一般のフツー人の「ホロコースト」に関する知識って「ヒトラーガス室を使ってユダヤ人を虐殺した」と一行で言えてしまう程度なんですよね。その一行知識があっても「ホロコースト」という言葉を知らなかったりする。単に「第2次大戦中にそんなことがあった(らしい)」てなレベル。

 そんなフツー人に対して、ホロコースト否定者は、たとえばこんな風に囁きかけます。「知ってますか、ユダヤ人を殺したっていわてれるガス室など、実は存在しなかったんですよ」と。一番センセーショナルな主張を最初に掲げるのが、否定者の手口です。「何を馬鹿なことを」と思いつつ、今まで聞いたこともない「新見解」に興味をそそられる、というのがフツー人の反応でしょう。そこでレスポンスを返して、否定者との「論争」が始まる。でも、フツー人サイドの根拠は「読んだ本にそう書いてあった(ように記憶する)」てのがせいぜい。対して否定者は、物証の薄弱さ、証言の矛盾、「科学的鑑定」など、微に入り細をうがった「解説」を用意しています。フツー人はとうてい反論などできやしない。「論争」というよりも「講義」に近い状態で、フツー人の知識欲が旺盛ならば旺盛なだけ、乾いた土に水が滲み込むように、ホロコースト否定説が注ぎ込まれていきます。
 例えて言うなら、法律にうといお年寄り相手にインチキな「消防法」をタテに要りもしない消火器を売り込む詐欺師の手口です。お年寄りが「法律を守りたい」と思えば消火器を買うしかないという「結論」に至る。そのように巧妙に仕組まれた「解説」が、あらかじめ用意されているのです。
 ホロコースト否定者は、「本当のことを知りたい」というフツー人の知識欲を悪用するのです。フツー人が知る由も無ければ学ぶ機会も無かったデティールに入り込んだ「解説」を駆使して、あらかじめ用意された「結論」へと相手を追い込んでいく。三鷹自身、ハマりかけた経験を基に言ってるんですが(苦笑)

「66Q&A」批判の効能と使用法

それにどう対抗するか、というのは引用元の記事を読んでみてください。一般論としては賛否あるかと思いますが、それでも三鷹氏の行動には否定しがたい価値があると思います。

告白

恥ずかしながら南京事件に関しては僕も「足止め」を食らっていた一人です。経緯は以前も少し触れましたが、CloseToTheWall さんとよく似ていて『ゴー宣』で話題になったあたりで一度興味は持ったものの、細かい史料の検討などにはとても付いていけない、裏をとれそうにない、という印象を強くして敬遠していました。本を読むということも考えましたが、どの本から読んでいいかわからないという印象で、この頃はどの本も地雷に見えたというのが正直なところ。

でも結局のところ新書一冊*2読むだけで否定論の大半はトンデモだというのがわかりました。実のところ否定論の人たちがこだわる細かい証言の真偽とかはほとんど関係なくて、事件の大枠を形作る様々な事実を整合的に理解するには相当規模の虐殺があったと考える以外あり得ないのです。否定論の一点突破全面展開はたとえ一点突破に成功しても全面展開のところで陰謀論に頼らざるを得ないという点で元々無理があるのです。

このあたりの感覚は FAQ 的にまとめてしまうとうまく伝わらないのも事実で、「3分で読めるまとめになんて意味はない」というは、その意味で頷ける話。FAQ 的な知識だけではカウンター食らうとまた「中立」に戻されてしまう。それにまたカウンターを合わせて、とか繰り返しても知的に不毛ではあるし。でも政治というのはそれを続けることでしかないのかも(弱気)。

追記: それでもわかることはある

ブクマコメントより:

ono_matope [歴史] 『新書一冊読むだけで否定論の大半はトンデモだというのがわかりました』その読んだ本が偏向していないという確信は果たして持てるんだろうか

ぶっちゃけ偏向はあると思いますよ。秦郁彦は。でも基本的な事実を捏造したりするタイプではないと世評から判断して信用しています。

あと、大半の否定論がトンデモかどうかを知るにはまずありがちな否定論のパターンを知らないといけないわけですから、そういう意味では当然「新書一冊読むだけ」ではないですね。なので、二つを付き合わせると、否定論の方は基本的な事実をスルーし過ぎ(反論すらしていない)なので、否定論は基本的な枠組みを揺るがすような論になってないのがわかる、ということです。

もちろん新書一冊で南京事件の概要をバランス良く理解するというのは無理があります。歴史的事実をきちんと理解するという意味では、最低二冊は読めみたいな物言いは妥当だと思います。

ただ、えー、これ言うと Apeman さんに叱られそうですが、否定論のダメさを知るだけなら事実を正確に理解する必要すらないと思っています。進化論の論文が理解できなくても「科学とは何であって何でないか」を知っていればID理論のダメさはすぐにわかるのと同じ事かと。言いすぎ? でも何もかも理解しないと一歩も進めないと思わせるのが「足止め」の極意なのですから、このくらいは言わなきゃ釣り合いがとれないですね。。。



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*1:とはいえ、明確に捏造しようという意図を持ってやっている人は稀でしょう。にもかかわらず次から次へとコピペ兵みたいなのがわいてくるのが怖いところですが…

*2:秦郁彦『南京事件 - 「虐殺」の構造』 (1986)