(´・ω・)チベットヒドス

チベットヒドスといえば、こんなのがありました。

日本で初めてダライ・ラマ自叙伝の完訳を出した木村肥佐生氏は、日本ではトップクラスのチベット通でテレビでお馴染みのペマ・ギャルポ氏の師でもありました。なんでそんなにチベットに詳しかったのかと言えば、戦時中にスパイとしてチベットに潜入していたからです。

終戦後も木村氏は日本に戻らず、当時まだ封建制社会だったチベットの近代化を目指す青年グループと交流していました。しかし改革派の運動に深入りしすぎて国外追放の憂き目に。

詳しくは部屋のどこかにある『チベット潜行十年』に記述があったはずですが、見つからないのでダライ・ラマ自叙伝の序文より:

中国共産軍に蹂躙(じゅうりん)される以前のチベットをまのあたりに見聞してきた木村教授の体験は貴重である。しかも、革新的なチベット人青年グループと知り合い、彼らと共にチベットの中世的封建政治を改革しようと意図し、日本の明治維新を参考にして世襲貴族や上級ラマからなる上院と、選挙された代表からなる下院の二院制度、貴族や寺院の領地接収、貴族処遇案などを提案したという。そのとき、五か条の御誓文を懸命にチベット語に翻訳しようと苦心したという話も面白い。こうしてでき上がった改革案をチベット新青年グループの主な人々数名と連署チベット政府に提出した。しかし、これはチベット上層部の入れるところとならず、かえってグループ全員が国外追放されてしまった。その中には蒙古人ダワ・サンボつまり木村教授も含まれていた。これは中国共産軍がチベット侵略を開始する前年一九四九年のことであった。

倉前義男「刊行によせて」 『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』木村肥佐生訳 (1986) p21-22

(´・ω・)木村肥佐生タンカワイソス

ダライ・ラマ14世は自叙伝の中で、自らが改革委員会を設置し封建制からの脱却を図ったが中国の侵略のせいで改革を果たせなかったとしています。委員会の設置は1952年。木村氏が追放された頃にはまだ政治的実権を握ってなかったようです。

もしダライ・ラマの改革がもっと早かったら、木村氏はチベットを追放されずに済んだかもしれません。でも一方でチベットに残っていれば人民解放軍の侵攻に巻き込まれて命を失っていたかもしれません。結局は追放されてよかった、ということでしょうか。。。