調査報道とメディア

見えないモノが見えちゃう系ナカマ? として一言。これは堀江氏の発言が存在するしないというよりは「調査報道」というものに対する考え方の違いなのでは? 当該番組を見ていないので外してるかもしれませんが、上のエントリを見る限りはそう思いました。

堀江氏は通常「調査報道」という言葉で表現されるメディア主体の調査報道は否定していると思います。調査報道というのは、

  1. 何を調査するか、どう掘り下げるかという意志決定(調査)
  2. その意志決定に基づく取材活動(調査)
  3. 取材結果をどう報じるか、どれだけ大きく取り上げるかという意志決定(報道)
  4. 取材結果をメディアに流す(報道)

というステップからなるわけですが、通常は(従来メディアの考え方では)これら四つのステップを特定の報道機関がセットでやるのが調査報道。1, 2 が外部の組織によるものだとその組織の広報みたいになってしまうので調査報道が大事だと言われるわけです。だから(僕の知る限り) 1 から 4 まで全部報道機関が責任持って面倒みるのを指して「調査報道」という言葉が使われることが多いです。

しかし堀江氏はメディア企業がこれらのステップをまとめて面倒を見る事自体に否定的です。そこに恣意的な情報操作の入る余地があるからです。よって、堀江流のあるべき報道というのは、

  • 調査と報道の分離(メディアは 1,2 に主体的にコミットしない)
  • 意志決定の透明化・市場化(1,3 を「人気」で自動制御)

ということになります。こうすると配信と人気の集計を連動する機械的な仕組み(アルゴリズムとその実装)をメンテナンスするのがメディア企業の仕事になり、基本的にメディアの意志が入り込む余地はありません。「完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ」というのはそういうことでしょう。

そして、メディアの意志が入り込まないかわりにメディアは基本的に報道内容に責任は持たなくてよいことになります。どんなニュースがどれだけ供給されるかは、生産者(ジャーナリスト)と消費者(読者)の間の需給関係で決まり、書いた記事が売れないのも読みたい記事が読めないのも自己責任です。

こういう形態のメディアにおいても、結果として、広い意味での調査報道、つまり記者が独自に取材して書いた記事がメディアに載って人気を博し広く知られる、ということはありうるでしょう。そういう調査およびランキング最適化のための記事の書き方のノウハウを蓄える調査会社みたいなのができるかもしれません。堀江氏はそういう意味での調査報道をことさら否定しているわけではありません。

しかし、調査報道を積極的に支持しているわけでもありません。堀江流メディアのシステム上では「調査報道」と「組織の発表やリークの垂れ流し」は区別されません。どちらが生き残るかは読者次第です。読者を信頼して調査報道が生き残ると楽観しているからそれでいいと思っている、というわけでもないようです。読者が望まないならなくなればいいということです。

要するにあってもなくてもよいという意味で中立というのが堀江氏の立場。しかしこれは、調査報道は良いものでありなくてはならないもの、という立場から見れば調査報道の価値を認めないという意味で否定的ということになります。

思ったことだけさらっと書くつもりが長くなってしまいました。堀江氏のビジョンに対する僕の評価についてはまた機会があれば。結論だけ言うと、補完メディアの仕組みとしてはアリかなと思いますがマスメディア全体をこういう仕組みに置き換える事には反対です。