書いたはずの事が読みとられていないという印象を強く持ったのだけど、僕が信用できない*1ということであれば信用しなくていいので、モジモジさんの野宿者を怖がること、mojimojiさんの「野宿者を怖がること」についてを読んでください。僕が t_kei さんに理解して欲しい事はほとんどお二人が言い尽くしています。
しかし同時に、もし仮に「人」を「他人」に置き換えたとしても、事態は何も変わらない、とも言える。たとえば路上で身体を露出することを好む人間は、どの社会においても一定数存在する。だからと言って私たちは、「アメリカでストリーキングがいた、だから『アメリカ人は怖い』と思うことにも一理ある」といった話はしない。にも関わらず、野宿生活者にはそのような表現が適用されてしまう。この表現に関して言えば、単純にそういった次元の話に過ぎない。
おかしいですよね (2) (諸悪莫作)
- 日頃から反社会的・脱社会的と思われている人が、
- 反社会的・脱社会的な行動をとれば、
- そういう思いは強化される
- 被害感情が強ければより一層強化される
という事を言っているのです。だから「アメリカ人」に置き換えられません。最初のステップが成り立たないので。*2
最初のステップの認識が元々差別感情によるものなら問題ですが、ホームレスの場合は元々差別感情がなくても現実に不潔だったり公共の場所や他人の土地で寝泊まりしていたり*3して脱社会的な印象を持たざるを得ないわけです。
偏見が強化される流れは噛み砕いて書けば以下のようなこと。
- 「ホームレスは不潔だなあ」
- 「社会性がないんだろうなあ」
- (ここでホームレスの露出プレイ目撃)
- 「これはひどい」
- 「やっぱり社会性ないんだ」
- 「ひどく社会性がないんだ」
もちろん上の「やっぱり」以降は過剰な一般化というものであり、論理的には間違いですが、そういう印象を持つこと自体は避けがたいです。ホームレスを深く知らない人にとっては「これは例外」と判断する根拠もないのですし、かといって深く知るにはリスクをとるか(一度怖い思いをしているのですから近づくのはリスクです)コストをかけるか(資料を探したり読んだり、読めるだけの知識を積み重ねるにはコストがかかります)どちらかが必要ですので、とりあえずリスク回避に役立つ方向に認識を改める、つまり危険だと思っておく、というのは個人的な選択としては合理的ですから。
大事なのは、
- 個人的な判断をそのまま公共政策の根拠にしてはいけない
- 防御の必要があっても過剰防衛はいけない
ということ。上で挙げたような考え方は、あくまで個人のリソースやスキルの限界に制約された「とりあえず」の判断ですから、そういう制約が少ない、そういうことのプロであるところの行政がそのまま受け入れるのは怠慢です。*4
また、仮に(あくまで仮にですよ)ホームレスは危険という結論に至ったとしてもホームレスが死ぬ方向の政策は絶対にとってはならない、というのは当然のこと。犯罪者ですら命の保証はされるのですから(死刑囚を除けば)。
もちろん、みんなが聖人君子のようになれば偏見はなくなるし、偏見に基づく差別もなくなるし、行政がノーチェックで市民の言うがままだとしても妥当な政策しか実施されませんが、そんなのを期待する方がおかしい。昔「ホームレスと生活保護、とか。」に書いたことを繰り返します。
他者に対する想像力なんてのは「普通はない」を前提に制度を作るのが基本でしょ。その上で社会的コストを削減するために啓蒙活動とか教育とかするんだと思う。そっちの方は成果が出るまで時間がかかって、せいぜい次の世代にはちょっとマシになるって程度だから、そればっかりアテにできるものではありません。
ホームレスと生活保護、とか。 (児童小銃)
ホームレス問題が「身体に関わる、極めて緊急性の高い出来事」だと言うのなら、人の心を根っ子から変えることよりも、心がどうあれ人を動かすことを優先しなくては。それはたかだか効率の問題だけど、効率の悪い選択肢を選択することは、効率の差で救えなかった人たちを見殺しにすることでもあるのですから。
私たちの社会において大勢を占める「野宿生活者は怖い」という感情と、現実に野宿生活者が置かれている状況、そして、今回の排除。それらに関連がないと言うならば、それは奇妙なことだと言わざるを得ない。そのような事態を招来し、そして許容してしまう、その状況と、この感情とが無関係だとはたして言えるのだろうか。
おかしいですよね (2) (諸悪莫作)
議論をしたいのなら疑問形(反語)でなくて「こういう理由でこういう関係がある」と言って欲しいです。僕は「専ら怖さとは別の理由(自己責任主義)で排除が許容されている」という話をしたのですから。
行政側の排除の理由には直接触れませんでしたが、要するに世界陸上でよそから人がいっぱいくるから見映えを良くしたい、大阪の評判を落としたくない、ということだと推測しています。あくまで推測ですが、こういうのはオリンピック開催地などで繰り返されてきたことで、想像に難くはないところ。
実際、野宿生活者に投げかけられる「社会に甘えるな」だとか、「人に迷惑をかけるな」といった言葉は、日々私たちを苛む言葉でもある。だから実際には、排除する側と排除される側、その境界は曖昧なものであり、背景、時代精神を同じくするものなのだと言える。そしてそのような意味においても私たちは、この感情に関して、単に「しょうがない」で済ますわけにはいかない。
おかしいですよね (2) (諸悪莫作)
僕が「しょうがない」と言ったのは「怖い」という感情が生じることで、「社会に甘えるな」「人に迷惑をかけるな」というような誤解に基づく自己責任主義の言葉ではないです。そういう言葉に対しては元記事で反論したつもりです。
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