色々流れをぶった切って悪いのですが、前回のエントリ(金子洋一氏に投票した件)を書いた理由や、僕が何を前提に判断し、行動しているか、というあたりを明示しておこうと思います。流れに沿った部分(コメントの返事とか)は、また後ほど対応したいと思います。
なぜあのエントリを書いたのか
まず、あのエントリは、「あなたの行動はあなたの信条と矛盾しているのではないか」あるいは「あなたは転向したのか」という疑問に対する答えとして書かれています。読者が僕の立場で考えたとき、その立場ならその行動は理解可能、と思ってもらえるのが目標です。
一般に僕のように行動するのが正しいと主張したり、他人に対して「僕のように行動しよう」と訴えるものでもありません。後述しますが、むしろ僕のやり方は他人にはあまりお勧めできない類のものです(大多数が同じやりかたをしない事を前提としているから)。
そもそもなぜ金子議員に投票した事を公言したのか、という疑問もあるかと思います。これについては、行きがかり上言ってしまったという部分も大きいのですが、普段から僕の信条がどういうものかご存じの方が、僕の選択を意外なものと受け取り、それがリフレ政策について考えるきっかけになることを期待する、という面もありました。とはいえ、これについては偶然の要素が大きいです。
前提となる認識
前回のエントリで、僕がどう考えどう行動したかについては一通り説明したのですが、考えの前提となる認識や価値観について明示していなかったので、判断の(僕の立場に立った上での相対的な)妥当性を評価しづらいということにあとから気付きましたので、その点を補足します。
デフレ脱却の重要性と緊急性は非常に高いと認識しています。現状では最優先と言ってよいと考えています。2007年の参院選での僕の選択からもわかるように、歴史修正主義が外交政策や教育政策に反映される危険性が目の前にあると認識していれば、さすがにその阻止が優先です。しかし今の民主党政権にその危険は当面ないと考えています。
リフレ政策の有効性については有効であると認識しています。そしてなによりデフレ脱却を可能にする政策は他にないと考えています。リフレ政策の政治的実現可能性は、やっと目鼻が付いてきた、くらいの状況ですが、他の方法を今から探すよりはずっと近道であろうと考えています。
リフレ政策は一度実行されればかなり即効性のある政策だと理解しています。金融政策なので、日銀がしっかりしていれば、その後の微調整についても政治的な駆け引きによる政策決定の遅延は最低限で済みます。
危機の内実についての認識
デフレ脱却は緊急課題と認識していると書きました。と言っても、単に経済がデフレであること自体が問題だということではありません。デフレの結果としてもたらされる危機の回避が緊急であるということです。
「いま1万人を助けるために50年後に10万人が死ぬ」という喩えがありましたが「いま1万人」にある危機の内実が曖昧なままなので、ここで僕の認識を明示しておきます。
僕の場合「いま1万人」の危機は、専ら失業や貧困を指していますが、むしろそれにより将来への希望を失うこと、特に自殺に追い込まれることを強く意識しています。
失業や貧困自体は補助金で雇用を増やしたり直接現金を給付したりすることで緩和できますが、それが一時的なものにとどまるなら将来への希望は救えません。また、他人のお金で生きながらえる事自体が希望のない状況と考える人も少なからずいます。
不況で失業や貧困に追い込まれた人たちは、努力しても報われなかった人たちです。努力が報われないという経験がその人たちの希望を傷つけています。政府がお金を配ってその人たちの所得を支えたとしても、それは自分の努力が報われたわけではありませんから、希望は救えません。努力が報われると期待できる社会にすることが重要です。
ベーシックインカム(BI)のように、恒久的かつ無差別に最低限の所得を保証するならば、さしあたっての将来不安は解消されるかと思います。ただしBIの収入以外がない状態が続けば「生かされてる感」がつのり、希望を損なう結果になるでしょう。また、BIは財源の問題等で政治的なハードルが高い政策なので、近い将来実現する可能性は低いと認識しています。
投票行動の戦略について
代議制を技術的な制約下での直接民主制のシミュレーションと見るならば、つまり、代議制を民意=集合知による最適化計算プロセスのようなものとするならば、選挙では単純に自分と考え方の似た代議士を選ぶべきでしょう。そうすることで最終的に国会での議論によって民意に即した政策が実現されるはずです。
この考え方だと、自分と考え方の似た代議士がいない場合は自分の意見を民意として反映できないという問題があるのですが、その場合は自分か自分に似た人が立候補するのがスジです。
民意による政治の実現が目標なら、つまり、個々の政策の実現ではなく、集合知的なプロセスによって最大多数が最大限に納得し責任を引き受けられる政策が実現されることを目標とするなら、上のような結論になります。
しかし一方で、選挙を有権者が望む公約やマニフェストに掲げられた政策実現の手段として見るならば、敢えて思想信条が一致しない候補者を選ぶという選択肢はあり得ます。
その場合、まず死票は投じないという方針になります。当選しそうにない泡沫候補は相手にしません。当落線上の候補については、たとえば、
- 候補者が実現に貢献しうる政策の効果 (a)
- 望ましい効果はプラス、望ましくない効果はマイナス
- 候補者に期待できるその政策の実現への貢献度 (b)
- その政策の現在の実現可能性 (c)
ということを考慮して、候補者の公約にある全ての政策について、政策の効果の期待値が候補者が当選する事によってどれだけ増えるか、の総和をとることで、候補者の評価値が計算して、評価値が最大になる人を選ぶ、ということが考えられます。
と言っても、さすがに僕も実際に個々の要素を定量評価して数式に当てはめて計算したりはしてませんが。。。
上のように考えると、たとえば、思想信条が一致していて望ましい政策(a が大きい)を支持している候補者でも、政治力がなくて政策実現にほとんど貢献できなかったり(b が小さい)、そもそもその政策は政治的ハードルが高く当面実現可能性が低い(c が小さい)場合、その候補者の評価が低くなる場合があります。
また、思想信条がまったく一致しない候補者の場合は政策の効果の部分(a)が全部マイナスになるので、当選すれば損するわけですから、そんな人に投票するのはありえません。そんな人しか立候補していないなら棄権がベストです。
問題は、望ましい政策と望ましくない政策を同時に支持している候補者です。金子議員がこれに当てはまります。
僕の認識ではリフレ政策の効果(a1)は大きく、実現可能性(c1)もそこそこあり、メディアへの露出など情報発信力もそこそこあるので貢献度(b1)も高かろう、と考えました。
一方で、彼が支持すると考えられる右翼的な政策については、政策の効果(a2)としては大きなマイナスです。しかし、少なくとも公約上には彼は外国人参政権反対しか挙げませんでしたし、経済政策の実現を最優先する態度を見せていますし、右派勢力の中での彼の存在感は低いので、当面彼がそういう政策に貢献する度合い(b2)は低いと考えました。また、民主党政権の中枢は左派ですから右翼的政策の実現可能性(c2)はかなり低いでしょう。
大雑把な読みではありますが、総合すると、金子氏には当選する価値がある、と判断しました。立場を変えて、a1, b1, c1 を低く見積もる、あるいは a2, b2, c2 を高く見積もる立場なら見れば金子氏への投票はない、という判断になるでしょう。判断は政策の評価や状況認識に左右されるのです。
しかし、そんなややこしいことを考えて投票すべきではない、という考え方はあると思います。そもそも有権者の多くがこういった戦略的投票行動をとった場合、民意が正しく反映されない可能性があります。たとえば、みんなが望む政策の実現可能性が過小評価されている場合、みんなが素直に(候補者の政治理念を基準に)投票すれば実現可能になる政策が戦略的投票では実現されない、ということがあり得ます。
ただ、現状では素朴な民意がリフレ政策を選択できるとは思えない、という認識が僕にはあり、リフレ派議員の買い支えが必要だと思っていたのです。
「歴史修正主義者」について
歴史修正主義者を国会議員にしてはいけない、という意見があります。よほど切羽詰まった状況でなければ、という条件付きではありますが、それには共感します。
デフレ危機はかなり切羽詰まった状況ですが、前のエントリで安倍晋三レベルの人ならさすがに投票できない、とも言ったように、破局がもう目の前、という程切羽詰まった状況でもないと思っています。
じゃあ、金子議員は歴史修正主義者じゃないのか、どうなんだ、と言われると、正直返答に窮します。これは別にリフレ派として云々とは全く関係なく、以前から誰かを「歴史修正主義者」と呼ぶのには抵抗があるのです。実際このブログでそういったことをしたのは前回のエントリが初めてです。
これは偶然ではなくて、意図的に避けています。僕が以前書いた歴史修正主義の手口についてでも、「歴史修正主義者」という言葉は一度も使いませんでした。論調も、歴史修正主義というミームの生存戦略を知ることでミームに感染しないように、またミームの拡散を見過ごさないようにしよう、というものでした。
もちろん「歴史修正主義者」はいます。歴史修正主義の普及に努め、時には資料の捏造までする確信犯は、そう呼んでよいでしょう。また、具体的に歴史修正主義を国策化しようとする政治家も同様です。*1
しかし、単に歴史修正主義の見解を支持しているというだけで、その人に「歴史修正主義者」という強いラベル*2を貼ることには抵抗があります。いわゆる「足止め」から歴史修正主義の側に一歩進んだくらいの人まで「歴史修正主義者」呼ばわりするのはやりすぎではないかと思うし、相手の態度を頑なにさせて本当に「歴史修正主義者」にさせてしまうような逆効果もあるのではないかと危惧するからです。
いや、「歴史修正主義者」というのはそんな決定的なラベルではなくて、一定の広がりを持ったスペクトラムに分布す人たちの総称だ、ということならば、その人が国会議員になるべきではないかどうかは程度問題だと思います。
冒頭で僕は「歴史修正主義者を国会議員にしてはいけない」に対して、「共感します」と書きました。それは正しい、そうすべきだ、とは書けませんでした。
嫌な話ではありますが、日本の近代史に関する歴史修正主義は、欧米におけるホロコースト否定論に比べると、かなりカジュアルな広がりがありますし、歴代政権の態度も歴史修正主義に断固として立ち向かうといった姿勢はなく、有権者の意識においても歴史認識は外交問題という認識が主流だったのではないでしょうか。*3
そういった社会で政治に関わる以上、歴史修正主義には一切妥協しない、という態度は政治的な選択肢を少なからず制限します。一般に、人は反歴史修正主義のみに生きるわけではないですから、何もかも我慢して妥協するな、とは言えません。
僕自身はかなりの程度反歴史修正主義にコミットしていますから、かなりの程度は我慢しますし、実際我慢してきましたが、それでも限界はあります。妥協するにあたっての利害得失の見積もりの甘さに対する批判は甘受しますが、妥協したこと自体を批判されても困る、というのが正直なところです。