田上孝一『はじめての動物倫理学』をこれから読もうと思うのだけど、その前に、現時点で動物倫理についてどう考えているか、を記録しておこうと思う。
- 作者:田上 孝一
- 発売日: 2021/03/17
- メディア: 新書
そもそも動物倫理について曖昧にしか知らないからこそ「はじめての」と銘打つ本書を読むことにしたので、以下に述べることは概ね的はずれな話でしかないかと思うが、読後に考え方がどう変わったか、変わらなかったか、というのを自分で確認できるように。
特に誰かを説得したりするためのものではないので、箇条書き形式で思うがままに書き連ねることにする。
- そもそもなぜ他人を苦しめたり傷つけたり殺したりしてはいけないのか?
- いつ誰に苦しめられるかわからない状況で生きていくのは辛すぎるから互いに傷つけ合わない約束として「他人に苦痛を与えない」という倫理が必要とされた、と考えている。
- 「他人」の範囲は最初は共同体のメンバーに限られていたが共同体間の相互依存が進むにつれ、人間全体に広げる必要が出てきたのではないか。
- 相互に交わされる約束なので約束を理解し約束を守る能力と意志のない者は対象外。
- それだと子供や知的障害者などはどうなるのか?
- 子供については誰もが最初は子供なのだから保護しないわけにはいかない。
- とはいえ母体の命に関わらない場合でも人工妊娠中絶を認めている以上、胎児レベルになると対等な「人間」として扱っていないのではないか。
- 動物倫理を支持する人は人工妊娠中絶についてどう考えているのだろう?支持できないという立場にならざるを得ないような…
- とはいえ母体の命に関わらない場合でも人工妊娠中絶を認めている以上、胎児レベルになると対等な「人間」として扱っていないのではないか。
- 障害者については、回復する可能性があるというのと、親族等がその人を仲間とみなしていることを尊重するという意味で保護すべきではないか。
- それだと身寄りもなく回復の見込みもない障害者を傷つけない根拠がないのでは?
- ストレートには保護する必然性を根拠付けられないかもしれない。
- 結局「かわいそう」を根拠にするしかないのかも。
- それだと身寄りもなく回復の見込みもない障害者を傷つけない根拠がないのでは?
- 子供については誰もが最初は子供なのだから保護しないわけにはいかない。
- それだと子供や知的障害者などはどうなるのか?
- そういう功利的な理由だと、反撃しない相手に対しては約束を守る理由がなくなるのでは?
- 個々の事情に関わらず普遍的に守られる約束でなければ、約束が守られると予期することで得られる安心が得られないため、約束を守らない者に対して第三者が制裁を加える動機があり、制裁を回避するという理由で約束が守られるであろう。
- いつ誰に苦しめられるかわからない状況で生きていくのは辛すぎるから互いに傷つけ合わない約束として「他人に苦痛を与えない」という倫理が必要とされた、と考えている。
- 上のような考え方だと、約束を交わせない相手である動物を人間と同様に扱う理由はない。
- 「かわいそう」を根拠にした保護はありうるがそれは動物側の権利ではなく、あくまで人間側の心の平安を保護するもの。
- ただし、人間に懐き、躾が可能な動物についてはある程度「約束」が成立していると見るべきかもしれない。
- 「かわいそう」を根拠にした保護はありうるがそれは動物側の権利ではなく、あくまで人間側の心の平安を保護するもの。
- 痛覚の有無を「苦痛を与えない」対象を識別する根拠とするのはよくわからない。
- そもそも我々が特定の属性を持つ人たちを差別していた/いるのは、その人たちが苦痛を感じないと思っていたからではない。その人たちの苦痛に共感しない、共感しなくてよいと思っていた/いるから。
まあ倫理学っぽい考え方ではないというか、倫理のために人があるのではなく人のために倫理がある、ぐらいの考え方なので、単に僕が倫理学を全否定する人でなしでした、ってだけの話かもしれない。
それにしても気が重い。読むと肉が食べられなくなるのではないか。それは僕にとって生きる意味の少なからぬ部分を棄損することを意味するし、それ以上に自分の過去の人生を取り返しのつかない罪に塗れたものとして全否定することになるのではないか。そんなことになったら正直死んだほうがマシと思わざるを得ないのではないか。
死にたくないので読まない、という選択もあるにはあるけれど、こういう時代の流れでは目を閉じ耳を塞ぎ続けるのも限界があるし。でも辛すぎて最後まで読めない、ということはあるかも。